このブログでは、トビリシの街角で交わした、ちょっとした人との触れ合いも記録しています。今回は、久しぶりに訪れたお店で感じた、言葉を超えた温かさの話です。
目的はただの「ネギ」だったのに
先日、久しぶりにあの通りへ足を運んだ。用事といっても大したものではなく、ただネギを買いに行くだけだった。
向かった先は、以前近くのレストランで働いていた頃、毎日のように食材の仕入れで通っていたエリアだ。仕事を辞めてからはすっかり足が遠のいていた場所でもある。
「お、お前!」の一言と、少し重いビニール袋
目指したのは、当時よく利用していたお気に入りの八百屋兼肉屋。店先に肉と野菜が並ぶ、ごく普通のローカルなお店だ。
店先に立つおっちゃんの顔が視界に入った瞬間、胸の奥が少しくすぐったくなった。
「Heyyy, bro!!」
おっちゃんはすぐに私だと気づき、顔をくしゃっと歪めて笑いかけてきた。多くを語る人ではない。それでも、その笑顔ひとつで「元気にしてたか」と言われているのが伝わってきた。
この日分けてもらったのはネギだった。手渡された束は、明らかに頼んだ量より少し重い。「ほらよ」と、当たり前のような顔で少しだけおまけしてくれる。
異国の街で、誰かが自分の顔を覚えていて、ちょっとだけ特別扱いしてくれる。たったそれだけのことなのに、受け取ったビニール袋がなぜかじんわりと温かく感じられた。
拙いジョージア語を、根気強く聞いてくれた店員さん
レストランで仕入れを担当していた当時、特に足繁く通っていたお気に入りの店が2軒あった。
1軒目は、チキンショップの「biubiu」。チェーン店なので、個人商店のような臨機応変な融通は利かない。それでも通いたくなる理由は、カウンターに立つある店員さんの存在にあった。
当時の私のジョージア語は、控えめに言ってもかなり怪しかった(それは今でもそう大差ない)。単語を必死に繋ぎ合わせるだけで精一杯、発音もかなり不安だったはずだ。それでも彼女は一度も面倒くさそうな顔を見せず、耳を澄ませて拙い言葉を丁寧に聞き取ろうとしてくれた。
「こういうこと?」と、互いにようやく理解し合えた瞬間に浮かぶ、ホッとした笑顔。システムだけで回っているはずのチェーン店なのに、そこには確かに人と人との温度が通っていた。
不器用なりの優しさをくれた、八百屋のおっちゃん
そしてもう1軒が、冒頭でネギをおまけしてくれた、あの八百屋だ。
このおっちゃんが、とにかく最高だった。最初はお互い手探りの関係だったが、毎日顔を出して覚えてもらってからは、店に足を運ぶのが毎回楽しみになっていた。
肉を仕入れるときも、「今日はこれにしとけ」と理由もなく少し量を多めに詰めてくれたり、時には「これは店では売り物にならないから、お前にやるよ」と、ちょっとした部位を無料で持たせてくれたりした。
言葉が100パーセント通じ合わなくても、「美味いもん作れよ」という不器用な優しさは、手渡されるお肉のずっしりとした重みを通して、まっすぐこちらに伝わってきた。
そしてその温かさは、月日が経って久しぶりにネギを買いに訪れた今日この日も、あの少し重い緑の束の中に、ちゃんとそのまま残っていた。
この街で暮らす毎日を、静かに支えてくれるもの
あれから時間が流れ、働く場所も自分の日常の形も、当時とは少しずつ変わった。それでも、あの通りの角にある店と、そこで働く人たちは変わらずに営みを続けていて、久しぶりにふらっと戻ってきた私のことを、ちゃんと覚えていてくれた。
言葉が通じずに心細くなる瞬間や、ふと孤独を感じる瞬間は、異国で暮らしている以上どうしてもゼロにはならない。だけど、あの2軒の店のように、拙い言葉に根気強く付き合ってくれる人がいて、ネギを少し多めに持たせてくれるおっちゃんがいる。こういう小さな温かさの積み重ねが、この街で生きていく日々を静かに支えてくれているのだと思う。
家に帰って、もらったネギを刻みながら、そんなことを考えていた。やっぱりこの街が、私はかなり好きだ。
おまけ、包丁の切れ味に思うこと
ちなみに、ネギを刻みながらもう一つ思ったことがある。「あのおっちゃんのネギ、もっと綺麗に、気持ちよく刻みたかったな」ということだ。
今使っている包丁の切れ味がいまひとつなせいで、せっかくの新鮮なネギが少し潰れてしまった。すっと吸い込まれるように切れる良い包丁さえ使っていれば、おっちゃんの不器用な優しさも、もっと鮮やかに、美味しく受け取れたのかもしれない。日本の包丁の切れ味は、やはり世界一だと改めて思う。



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